登入祭りの灯りが消えていくのを、春香はただ呆然と見つめていた。
人混みに飲み込まれたはずの娘の姿は、どこにもない。 「くれは……!」 喉が裂けるほど叫んでも、太鼓の音がすべてをかき消した。返事はない。 ただ一枚、足元に落ちていた赤い葉だけが、残酷に答えていた。 警察が出動したのは、それから一時間後のことだった。 境内に設けられた臨時の詰所には、祭り帰りの人々が心配そうに集まり、ざわめきが途絶えない。 誰もが口を揃えて「少女は急にいなくなった」と言う。 祭りの喧噪の最中に忽然と消えた。目撃者はいない。 春香の説明は、動揺に満ちていて要領を得なかった。 「参道を歩いていたんです。ほんの少し目を離したら……赤い葉が……」 そこで声が詰まる。握りしめた手の中、血のような葉がまだ湿り気を帯びていた。 警察官たちは顔を見合わせ、困惑気味に母親を宥める。 その場に現れたのが、刑事の一ノ瀬祐真だった。 二十八歳。若さは残るが、どこか擦れたような目をしている。 無精ひげに整っていない髪、着古したスーツ。まだ若いはずなのに、年齢以上の疲れを纏っていた。 都会から数か月前に赴任してきたばかりで、この山間の町には馴染んでいない。 「失踪、ね」 報告を受けた祐真は、疲れたように煙草を探した。だが祭りの会場では吸えず、舌打ちを呑み込む。 「年端もいかない子供が夜に消えた。真っ先に考えるのは事故か誘拐だ。……だが、あんたは違う顔をしてるな」 祐真は春香に向き直った。 彼女の手の中にある葉に、ふと目を止める。 「それは……落ち葉か?」 「……いいえ。違います。これは……あの森のものです」 晴香の声は震えていた。 「森?」 「……“紅葉ヶ森”。」 その名を口にした瞬間、近くの町の人々がざわついた。口を閉ざす者もいれば、露骨に顔を歪める者もいる。 その反応に、祐真は眉をひそめた。 「何だ、それは?」 「言わないほうが……。刑事さん、あなたは知らないんです、この町で何があったか」 春香は言葉を飲み込み、唇を噛む。涙が頬を伝う。 祐真はその夜、森の入り口へ足を運んだ。 参道の先、屋台の灯りが途切れた闇に、大木が影のように並んでいる。 風が吹くたび、葉がざわめき、赤黒い影を揺らした。 足元に一枚、赤い葉が落ちていた。 拾い上げると、指先にぬめりが残った。 血のような臭いが鼻を刺す。 「……気のせいだろ」 呟いたその背後から、声がした。 ──くれは。 振り返る。誰もいない。 森の闇だけが、口を開けたようにぽっかりと広がっていた。 翌朝。 町は一夜にして緊張に包まれていた。 「またか」「やっぱり二十年ぶりに……」そんな噂が広まり、人々は家の戸を固く閉ざす。 祐真は町役場に呼ばれた。 応接室で待っていたのは、地元の古い寺の住職・古沢透だった。 白髪交じりの僧衣の男は、彼を睨むように言った。 「刑事さん、森を調べるのはおやめなさい。 あそこは、人が入ってよい場所ではない」 祐真は鼻で笑った。 「オカルトは信じないんでね。失踪した子供がいるんだ。手がかりがあるなら教えてもらおう」 住職は黙り込み、やがて低い声で告げた。 「二十年前にも、同じことがあったのです。……祭りの夜に、娘がひとり消えた」 その言葉が、祐真の背を冷たく撫でた。 彼は一度、赤い葉を思い出し、無意識に指先をこすった。まだあのぬめりの感触が残っている気がする。 「刑事さん。森に呼ばれた者は、決して戻りません」 その忠告を聞きながらも、祐真の心は決まっていた。 ──自分の目で確かめなければならない。 夜。 祐真は懐中電灯を手に、再び森の入り口に立った。 葉擦れの音が人の囁きに変わる。 ──かえれ。 ──おいで。 光の輪の中で、幹の表面に浮かぶものがあった。 人の顔。閉じた目、口元。 その口から、赤い葉がひらりとこぼれ落ちた。 祐真の手が汗で濡れる。 だが目は逸らさない。 「くれは……どこにいる」 その瞬間、森の奥から少女の声が返った。 ──ここだよ。 祐真の背筋に、氷の刃が突き立つような感覚が走った。紅葉で敷き詰められた道を進むと、森は次第に狭まり、やがて一つの空間へと開けた。 そこには、古びた社が佇んでいた。 苔むした石段、黒ずんだ鳥居。 屋根は半ば崩れ落ち、しかし赤い葉に覆われて、異様なほど荘厳に見える。 祐真の頬の印が、じりじりと焼けるように熱を帯びた。 まるで社そのものが、彼を歓迎しているかのようだった。 鳥居をくぐった瞬間、空気が一変した。 冷たい風が吹き、祐真の懐中電灯は一瞬、明滅する。 気配──。 祐真は銃を構えた。 ざわ、と社の周囲の紅葉が揺れる。 次の瞬間、木々の影から無数の人影が現れた。 子ども、若い娘、壮年の男。 着ている衣服は時代も姿もばらばらだが、誰もが瞳を失い、虚ろに祐真を見つめていた。 皮膚は透け、身体の輪郭は紅葉に溶けかけている。 (……これが、過去の犠牲者たちか) 最前に立っていたのは、三歳ほどの幼子だった。 紅葉の枝を握りしめ、首をかしげる。 「いっしょに、あそぼ」 祐真の胸が締め付けられた。 「……橘、美桜……」 名を呼んだ瞬間、幼子は微笑み、しかし口から紅葉の葉を吐き出した。 それは虫の羽音に変わり、祐真の耳をつんざく。 次々と亡霊たちが声を合わせる。 「ここに残れ」 「おまえも、還れ」 「赤い森の中で、いっしょに……」 祐真は必死に声を振り払った。
森の奥へ進むにつれ、祐真の足取りは重くなった。 まるで地面そのものが彼の体を引きずり込もうとしているかのようだ。 耳の奥には囁きが絶え間なく響いている。 ──いっしょに。 ──還ろう。 だが、その声の中に混じって、別の音が聞こえ始めた。 笛と太鼓の音。 華やかでありながら、どこか不吉な祭囃子。 気づけば、森の中は灯りで満ちていた。 赤い提灯が枝から吊り下げられ、無数の人影が笑いさざめいている。 それは間違いなく、秋祭りの光景だった。 祐真は息を呑んだ。 (これは……幻覚か? それとも……) 人々の服装は古めかしい。昭和初期のような装束もあれば、もっと昔の時代のものもある。 だが、誰一人として祐真に気づかない。 彼らは一心に、境内のような広場へと向かって歩いていく。 祐真も吸い寄せられるように足を運んだ。 広場の中央には、大きな石の台座があった。 その上に立たされているのは──幼い少女。 白い着物をまとい、頭には紅葉の枝が差されている。 怯えた瞳で周囲を見回していた。 (……生贄) 祐真の背筋に冷たいものが走る。 笛や太鼓が高鳴り、人々の口から一斉に祝詞のような声が溢れ出す。 その言葉は意味を成さない。 だが耳に届くたびに、祐真の頬の印が熱を帯びた。 「やめろ……!」 祐真は声を上げた。だが誰も振り向かない。 祭りの最高潮、太鼓が大きく鳴り響いた瞬間──少女
夜、町は静まり返っていた。 交番の机に広げた地図の上で、祐真は指を動かす。 赤鉛筆で囲ったのは、くれはが消えたとされる森の一帯──「楓の森」。 頬に残る赤い印は、もう細い筋ではなかった。 枝のように複雑に広がり、まるで樹木が皮膚の下から生えてくるようだ。 鏡を見るたび、吐き気を覚えた。 (放っておけば、俺自身が“森に還る”……) だが、そんなことよりも先に──くれはを救わなければ。 翌朝、祐真は再び橘家を訪れた。 春香は玄関先に立ち尽くしていた。 痩せた肩は夜通し泣き明かしたように震えている。 「……刑事さん」 春香は祐真の頬の傷を見て、息を呑んだ。 「やはり、森に選ばれてしまったのですね」 「俺はまだ、囚われちゃいない」 祐真は力強く言った。 「必ず、くれはを連れ戻します」 春香はかすかに微笑んだ。 それは祈りとも諦めともつかない表情だった。 「くれはを見つけても……もし人でなくなっていたら、そのときは──」 祐真はその続きを聞かず、頭を振った。 「そんな可能性は考えない。俺が必ず助ける」 日が沈む頃。 祐真は拳銃と懐中電灯を手に、森の入り口に立った。 紅葉の木々はざわめき、風もないのに葉が舞っていた。 境界を越える一歩手前で、背筋を冷たい汗が流れる。 ──来い。 ──もっと奥へ。 囁きが耳の奥に直接響く。
翌朝。 町の外れにある小さな神社の鳥居をくぐると、冷えた空気が頬を撫でた。 境内の奥には大きな楓の木が立っており、葉はすでに真紅に染まっている。 祐真は思わず足を止めた。 その紅葉は、不気味なほど鮮やかだった。 まるで血を吸って紅くなったかのように──。 社務所の縁側に座っていたのは、白髪の宮司だった。 年齢は七十を越えているだろう。深い皺を刻んだ顔には、何かを知っている者特有の静けさがあった。 「一ノ瀬刑事。……来ると思っていました」 祐真は驚いた。名を告げてもいないのに。 宮司は静かに湯呑を差し出した。 「森の声を聞いたでしょう。あれは“楓の社”の呼び声です」 「呼び声……?」 「この町の楓の森は、古くから“捧げの森”と呼ばれてきました。秋祭りは本来、森へ生け贄を捧げる儀式だったのです」 祐真の胸に冷たいものが落ちる。 宮司は続けた。 「二十年ごとに、森は“娘”を求める。 かつては村人たちが孤児やよそ者を差し出した。 だが明治以降、儀式は途絶え……森は代わりに、血筋を選ぶようになったのです」 「……橘の家、ですか」 祐真の言葉に、宮司はゆっくり頷いた。 「橘家は、この社に仕えてきた家系。 森と血の契りを交わした一族なのです。 だからこそ、森は彼らの娘を求める」 祐真の背筋に氷の刃が走った。 ──呪いは偶然ではなく、血に刻まれた宿命。 祐真は唇を
夜明け前の空はまだ群青色を残していた。 祐真は交番の窓を開け放ち、外の冷たい空気を吸い込んだ。 胸の奥に、昨日から貼りついた不快なざわめきがある。 机の引き出しにしまった赤い葉──それは朝になっても、かすかに湿り気を帯びていた。 「呼ばれてる……」 春香の声が脳裏に響く。祐真は額を押さえ、首を振った。 迷信じゃない。だが、論理で説明できるものでもない。 午前、祐真は町の図書館を訪ねた。 資料室に入り、地元史の棚を漁っていると、背後から声をかけられた。 「刑事さん……また余計なものを探してる」 そこに立っていたのは、司書の老人だった。 痩せた背筋は曲がり、眼鏡の奥で小さな目が細められている。 「橘の家に関わるな」 いきなりそう告げられ、祐真は眉をひそめた。 「なぜです?」 「……あの家は、森に選ばれたんだ。代々、女の子が……」 老人はそこで言葉を濁した。 祐真は思わず問い詰める。 「20年前の失踪も、今回の件も、森と橘家に関係があると?」 「口に出すな!」 老人の声は図書室に不釣り合いなほど鋭かった。 周囲の誰もいない本棚の影。 その一瞬、窓の外の木立がざわめき、紅い葉がひらひらと舞い込んできた。 老人は顔を青ざめさせ、祐真の胸ぐらを掴んだ。 「呼ばれるぞ。あんたもな……!」 その眼に浮かんだのは狂気か、それとも純然たる恐怖か。 夕方。 祐真は橘家を再び訪れた。 春香は仏壇の前
町役場の資料室は、午前の光に照らされながらも重苦しい空気を纏っていた。 古い木造の建物の一角、誰も近寄らない埃まみれの棚の奥に、祐真は目的のものを見つけた。 ──町内で発生した行方不明事件記録簿。 厚いファイルを開いた瞬間、紙の黄ばみと古い墨の匂いが鼻を突いた。 時代を感じさせる手書きの記録。丁寧な筆跡で記された事件の数々が並んでいる。 そして──二十年前の項に、その名はあった。 「橘美桜(三歳)」 日付は秋祭りの夜。 「自宅より外出し、その後行方不明」 捜索を行うも手がかりなし、と短く書かれていた。 祐真は息を詰めた。 苗字は「橘」。 春香と同じ。つまり、春香が20歳のときに失った娘だ。 ページの端には、鉛筆で小さく書き加えられた走り書きがあった。 「赤い葉に導かれた」 「母親の証言、記録せず」 ──なぜ、証言を削った? 祐真の胸に重いものが落ちる。 資料室を出ると、町役場の年配職員が廊下で待っていた。 「刑事さん、あんまり古いものに触れない方がいい」 「どういう意味ですか?」 「……その事件は、この町では“なかったこと”になってるんです」 男は怯えるように声を潜める。 「森に触れた者は、また森に呼ばれる。記録を残せば、繰り返す。そう言われてる」 「迷信で、記録を隠すんですか?」 問い詰める祐真に、男はただ首を振った。 「刑事さん、夜はあの森に近づかない方がいい。あなたまで呼ばれる」 祐真の胸に苛立ちが募る。 迷信を盾に真実から目を背ける──。 だが昨夜見た赤い葉と、木の顔と、少女の声は、どう説明する? その日の夕暮れ、祐真は春香の家を訪ねた。 玄関を開けると、線香の匂いが漂っていた。 居間には小さな仏壇があり、写真立てが置かれている。 そこに映っていたのは、幼い少女。 笑顔の横に「美桜」と名前が書かれていた。 春香は静かに言った。 「……あの子は三つでした。私が目を離したすきに、祭りの音に惹かれて外へ出て。 気づいたときには、もう……」 声が震え、目に涙が溜まる。 「捜したんです。どれだけ叫んでも、答えは返ってこなかった。 ただ、森の奥から、囁きが聞こえたんです。 “かえして”って……」 祐真の背筋に冷たいものが走った。 春香は、唇を噛み、続けた。